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映画『東京五人男』放送前対談

2015.10.11.Sun.23:58
動画サイトで見つけた岸惠子さん、池部良さん、笠智衆さんの古い対談映像。1945年の秋に東京の焼け跡で撮影された映画『東京五人男』のテレビ放送の際に、番組冒頭で放送された対談らしい。セットにはエンタツアチャコのバラックやロッパの五右衛門風呂が再現されていて、時間の経過によって照明が夜の色や、おそらく空襲の赤の色、それから平穏な昼の色になったりする。約10分の短い映像なんだけど、心に刺さるものがあったので書き起こしてまとめてみた。

出演:岸惠子、笠智衆、池部良
解説:佐藤忠男
制作著作:テレビ東京
資料協力:東宝

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 5

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 8

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 10

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 11

:(会釈)あのー長い長い昭和という時代の中にね、いろんなことがありましたね。もう戦争があり、そして、敗戦があり、もう、貧困があり、繁栄があり…今ちょっとその頂点に立って、なんとなく衰退の、兆しを見せているのではないかと私(わたくし)なんか勘ぐってしまうんですけど。(バラックのセットを示して)こういう、あのう、私は本当に焼け跡を知ってるんですけど、そういう私から見るとこうメルヘンのように美しい…(笑)感じで、セットの中に、焼け跡が組まれたわけですけど

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 13

:あのー私はその、横浜におりましてね、あの5月29日、横浜一斉空襲の時に、戦争ってなんて美しいものかとその時に…なぜ、思ったかと、思ったんですよね。て申しますのは、朝早く、警戒警報空襲警報が立て続けに鳴りまして、あのー私はまだ学生で、あの…真っ青な空がね、B29の、銀の翼で、なんかトビウオが、うわぁーっと一斉にね、横浜の空を覆ったようで、なんて美しいものかと私は思った経験があるんですけど

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 15

:そしてあの、兵隊さんに、「そこの子供、防空壕に入れ」って言われて、私は、なんとなく今日何かが起こると思って、死ぬの、だとしたらば、あんな暗がりの防空壕の中で死ぬのは嫌だ、どうせなら、あの空の見える…大変晴れてた日なんです、で、綺麗なところで死にたいと思って公園の松の木に登ったんですね。あの、兵隊さんや大人達に叱られながら

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 16

:そうしましたらそこの、横穴の防空壕に入った子供がみんなあの…死んでしまったんです。あの仮ごしらえでしたから、急ごしらえで、あの爆風と…あの土砂の、なんていうんですか、崩れましてね、死んで。私は、あの松の木の上で、私の家が直撃弾で燃えていくのを見ていたんですけど、そのために、大人の言うことを聞かないで助かったので、私は、「今日で子供をやめた」「これから大人の言うことは聞かない」と思ったんですけれども

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 17

:あの、例えば良ちゃんは、こういう焼け跡の、あの日、どんな思い出があります?東京が瓦礫と化した…
池部:このねえ、瓦礫と化した東京というのは僕はその、その頃は、いなかったんですよね
:知らないんだ
池部:うん
:兵隊さんに…
池部:兵隊に行ってね。ニューギニアにいたんですよね。だからその、瓦礫そのものは知らなかったんですけどね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 19

池部:あのー戦後、復員してきて、これは(昭和)21年6月なんだけれども、その、復員して直後に、約二ヶ月ぐらいね、病気をして。で病気をしたその、治りかけの時に、東宝から、あのー阿部豊さんのね、『破戒』っていう写真に、出ろと言うんで。それ、ああ有り難いと思ってね、で出たんですよね。で出て、えー、ロケーション先が、長野ですからね。だから、で私がいたのは、親父の疎開先の、茨城県だったの。だもんだから、茨城県から、あの長野県へ、直行して、そこで撮影終わって、で帰って来て、それから後は、まあ東京出て来たんだけども、もう…そうですねえ、まあ瓦礫っていうものは、えー、割と収まってた

:じゃあなんだかいい場所にいたわけだから、あのー、私なんかサツマイモの蔓と葉っぱぐらいしか食べたことないけど良ちゃんなんか白米なんて食べてたわけ?その頃
池部:冗談じゃないよ
:そうじゃないのねごめんなさい。ひがんじゃった、失礼しました
池部:冗談じゃない。まあニューギニアでもってね、あの
:あっニューギニアでね、そりゃそうですね
池部:食事が無くてね、あっ食事って食糧が無くてね
:ええ、ええ
池部:初めはねえ、カエルだのトカゲだの食べてたの
:んまあ
池部:だけど、これも食い尽くしちゃって、そのへんに生えてる雑草を食べてたの
:うんうんうん。同じようなもんでしたよね、内地でも

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 20

:笠さんはあの、あの瓦礫の山を、東京の焼野原…東京といいますか、あの、日本の、焼け跡をご存知でいらっしゃいますか
:僕はほとんど見てないんですね。さっきね、岸さんが言われた、B29
:はい
:あれで横浜がね、こう、やられる、ところ。あれはBはね富士山めがけて来るらしくて、それからあの、大船観音、でこっち横浜へ行くらしいんですがね。あっ、あれは昼じゃなくて夜だったんですがね、もう~素晴らしく綺麗だったのが…
:綺麗でしたね(笑) あっ笠先生もそうお思いになりました綺麗、美しかったんです

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 24

:ええ。昼間、B29を見たのは僕達は、銚子の、飛行場でね。『乙女のゐる基地』っていう映画を撮っていたの。そうすると、あの銚子のあそこからずっと上がってくるの。みんな飛行場にいたんですけどね、あんな小さな飛行場は狙わないんです。ずーーーっと向こうへこう…またこれが綺麗でね。呆けながら見てました。実に綺麗だったのは覚えてますねぇ

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 25

:それではあれでしょうか、あの、あの運命の日、8月15日。8月15日には、どこにいらして、どんなことをお思いになりましたでしょうか
:もうその、8月15日もね、やっぱ…あそこの、近江八幡っていうところへ、滋賀県の琵琶湖の、あそこへ河村黎吉さんとね、佐分利信さんが疎開していたの。それで、近江八幡に陸軍病院があるの。そこの慰問を頼まれたから、京都にね、僕と、三井弘次さんと、槇芙佐子さんと、いたもんですから、で五人でね、劇をやろうっていうことになってね
池部:ああ

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 27

:そして、劇も、宿屋の、近江八幡の宿屋の二階で稽古してたの。ところが、あの、えー天皇陛下の、お言葉がある…そいじゃあここのはあんまり、その頃テレビじゃなくてラジオですけど、ラジオは良くないから、前の床屋の、ラジオがいいから、で、五人で床屋に行ってラジオを聞いたわけ。ところがあの、陛下のお言葉で、もう槇さんは特に、ああーと泣いちゃってたし、で病院からはね、もう、慰問なんかいらんっつってお断りのことが、来ましてね。で、もう、そいで中止にして、槇さんと、三井さんと僕だけ、京都の方へずーっとこう……晴天の、真っ青な、空がもう実に空しくてね。ずっと歩いたのを覚えてます

:池部さんはいかがです。やっぱりニューギニアですか、終戦の時は…
池部:そうそう。あのニューギニアのね、…(聞き取れない)、ニューギニアなんですけどね、えーニューギニアの本島ではなくて、そのなんて言ったらいいかな、赤道に近いところにね、ハルマヘラって島があるの。この、まあ孤島なんだけども、ここにいて、これはねえあのー、小さな島でもってジャングルなんですよね。そのジャングルの中に二年半いたんだけども。で、えー、直接は聞かなかったんだけども私の上司のこの、えー部隊長から、こうこうであると。言うんでね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 38

池部:それその時はね、なんて言ったらいいのかな、何の感慨もないんだな。頭が白っぽくなっちゃってね。ただそれだけ。でそれが済んだ、後はね、今度は、「あら、俺は生きてたんだ」ってんでね。そらまあ笠さんの話じゃないけども、空を見たらね、向こうは暑いとこでしょ。でもう太陽がね、ものすごくもう、キラッキラしてんだけど、それは普段気が付かなかったの。それが見えたらね、なんて太陽って眩しいんだろうって

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 43

池部:うん。それと、僕が、あのー100人ばかりの、独立中隊の隊長やってたもんですからね、「あっ、この兵隊さん達も、殺さないで済んだな」ってそういう思いが、とても強かったですね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 45

:やっぱり、8月15日を何歳で迎えた、どういう状況で迎えたってこととっても大きいと思うんだけど、その、瓦礫の日本がね、何にもなかった日本が、今、世界を震撼せしめるね、工業国といいますかそのテクノロジーのもう、先端を切る、大、お金持ち国になってしまったんだけどそういう、日本のバイタリティ、っていうのを

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 46

:あの瓦礫の中で映画を撮ってた人達が、いるのね。ええそれでねえもう、本っ当にその焼け跡の中に走ってる電車とか、あたくしが感動したのは、あの、内側をもう本当に掘立小屋のね、あのートタン屋根で作った家が、嵐で壊れて川の中に流れてその穴に、なんか棒を、こういう棒ですよね、それを突っ込んで舟にして、漕ぐというね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 47

:本っ当に笑いと涙の、映画『東京五人男』というんですけれども、これをこれからね、あのー、皆様にご紹介したいと思うんですけど。あの日本、あの日本のあの年、あの負けた年にこんな素晴らしい映画が、できたというところで、佐藤さんに、バトンタッチを致します

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 49

佐藤:えーこの映画は、昭和20年の、敗戦のその年の秋に撮影された映画です。もう本当にみんな、あのー虚脱したと言われて何をしていいかわからなかったはずなんですけれども、もうちゃんとこういう映画を作ってたんですね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 50

佐藤:えー、これはもう本当に、えー東京の、焼け跡の中で、えーほとんどオールロケに近い撮影をやっておりますんで、えーその当時の世相風俗がまるごと写し取られています。えーそれで、えーまあ、年配の方はわかるでしょうけれども、若い人にはですね、この映画で描かれてることで、あるいは理解、しにくいところがあるかもしれませんのでちょっと説明しますと、例えば配給所っていうのが出てきますね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 51

佐藤:この、当時は、生活必需品は全部、切符で、えー配給されておりましたんで、切符を持ってそれを、もらい…買いに行くと。まあそういう配給所が出てきますね

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 52

佐藤:それからお酒を飲むのも切符だったんですね。それで、国民酒場というのが出てきます。ところが、あー当時お酒は、非常に、乏しかったもんですから、あの工業用のメチルアルコールというのを、まあ、こっそり飲む人、それを闇で流すような人がいたんですね。でそれを飲むと、あの首がこう曲がったりですね、それからまあ極端な場合、あの目が見えなくなる、そういったことがありました

東京五人男 岸惠子 池部良 笠智衆 佐藤忠男 対談 53

佐藤:ではどうぞ、『東京五人男』ごゆっくり、ご覧ください


1945年の5月29日、12歳の岸さんが自分の街に爆弾を落としに来たB29の大群を美しいと思ったこと。8月15日、41歳の笠さんが青い空を空しく見つめながら歩いたこと。29歳の池部さんが孤島のジャングルで初めて太陽を眩しく見上げたこと。
戦争とはこういうもの終戦とはこういうものと定義するためのものじゃなく、一人の人生の記憶として語られたその時見たもの感じたこと。それが三人とも空やその美しさなのが不思議な一致。

池部さんの、太陽がキラキラ輝いていることにずっと気付かなかったというところ、生きていることを思い出したというところ…短い言葉だけど、本当にどれだけ命の瀬戸際、心身の極限状態だったんだろうと思う。有名な映画スターが日本を遠く離れたジャングルの奥地で死ぬかもしれなかったことにも改めて驚く。これは池部さんだけではなく、実際に亡くなった方(俳優や映画監督、プロ野球選手なども)がいるから、池部さんや他の戦後帰国して活躍された方々も一歩違えばそうなっていたかもしれなかったという現実と、戦時には本当に誰も例外でない、他人事ではないことになるんだということを実感して。

これが放送されたのがいつ頃かわからないんだけど、三人の姿から推測するに大体1970~80年代前半ぐらい?岸さんが池部さんの疎開先を聞いて(茨城だったらお米があるわよね)と思ったのか真っ先に「白米食べてたの?」と突っ込んで「冗談じゃないよ」と返されてすぐに「ひがんじゃった」なんて素直に謝るのが、文字に起こすとわかりにくいかもしれないけど本当に可愛かった。
冒頭で「戦争はなんて美しいものかと…」とおっしゃった時にはびっくりしたけど、12歳の少女が死を意識して、自分の意志で最後の場所を選んで、そこで運命が分かたれたということの激しさ。当事者以外が無神経に奇を衒ったことを言うのとは違って、少女の岸さんが実際に見て思ったこと、瑞々しい言葉で語られるその心の動きに、私にもそれを美しいと思う気持ちがわかるような気がした。笠さんの言葉も、池部さんの言葉も、その時の青い空や照りつける太陽、蒸した空気やポカンとした心の感触が、一瞬自分の体の中に感じられるような思いがする。何かの思想に拠ってというのではなく、そのままの人それぞれの事実や胸懐をもっと知りたいと思った。
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