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明治のお嬢さま 黒岩比佐子

2013.09.18.Wed.19:53
明治大正昭和の初め頃ぐらいのお話が大好きなので、ガツガツと一気に読んでしまいました。面白かった~。
学習院って華族女学校とか女子学習院とか、なんかいろいろあったよなあ…というぼんやりとした認識だったので、今回そのあたりがわかってスッキリしました。明治10(1877)年の学習院創立時には小学部から男女共学(クラスも同じだったのかはわからないけど)で、明治18(1885)年に女子部が分離して華族女学校になり、明治39(1906)年にはまた学習院に併合されて学習院女子部になったとのこと。公式やwikiで沿革読むだけだといまいち頭に入ってこないんだよね。あと華族女学校時代は9月始まりで、1906年の学習院併合時に4月始まりになったということにちょっとびっくり。元々の9月始まりは欧米の影響だったのかな。

そして一番びっくりしたのが生徒の内訳。皇族と華族のために作られた学校だから当然そういう方しか入れなかったんだと思っていたけど、学習院女子部となってからのある一年の生徒数調べでは皇族華族が4割、士族と平民が6割程度だったとのこと。元々皇族華族の方が少なかったなんて。てっきり戦後になってから平民にも門戸が開かれるようになったんだと思ってた。ただ無試験で入れるのは皇族華族だけで、授業料も華族女学校時代以外は皇族華族は無料。でもそれはそもそも学習院の経費を各華族が分担していたからとか。なるほど。そしてお嬢さまがたの成績については、やはり無試験で入れる皇族華族のお嬢さまがたより、入試を勝ち抜いて入ってきた士族や平民のお嬢さまがたの方が優秀であったと。しかし、そんな学業があまりご優秀でない皇族華族のお嬢さまがたは習字や手芸、音楽などには秀でている方が多く、それは上流階級の女子のたしなみとして子供の頃から一流の師匠の薫陶を受けていることによるとか。結婚相手も同じ階級の男子に限られるから必然そういう傾向になるのね。

また当時華族女学校で教えていたアメリカ人女性が、華族女学校の令嬢たちのお行儀の良さについて非常に感動したという手記が紹介されています。(アリス・ベーコン著、久野明子訳『華族女学校教師の見た明治日本の内側』)彼女は華族女学校の生徒がみなおとなしく、礼儀正しく、完璧な淑女であることに感激して、アメリカの少女たちの振る舞いを思い起こして嘆いていたとのこと。

その著者が令嬢たちの行儀作法の例として紹介している、お箸の使い方。

食事のときに箸の先が「一寸や一寸五分」も汚れる食べ方はは行儀が悪いとされ、ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。一寸は約三・〇三センチメートルで、一分はその十分の一である。つまり、六分は約一・八センチにすぎないわけで、箸をそれしか汚さずに食事をするのは至難の業だ。

…やってみた。無理。手がつりそうになりましたよ。でも一口が小さくなるし食べるのも億劫になるので、ダイエットにはなりそうです。時々…時々、心がけよう。

この本にはところどころ写真も載っていて、でもその写真に対する詳しい説明が本文中には特になかったり、逆に写真はないのに説明があったりして少々物足りなかったりするのですが、個人的にすごく嬉しい写真が二枚ありました。まず、華族女学校の第一期卒業生が卒業時にみんなお揃いで作ったというバッスルドレスでの集合写真(といっても4人)。確かこれ第一期のみで、贅沢すぎるなどと世間からの評判が悪くてその後はなくなってしまったとかどこかで読んだ気がするの。そして確かに、あんまり美しくない、派手なデザインなんだよね。でも今見ると、そのシンプルなんだか派手なんだかよくわからないデザインがちょっと可愛くも見えたりします。それにみんなで同じドレスを着ることに、きっと当時お嬢さまがたは盛り上がっただろうなとか想像すると楽しい。

もう一枚は、当時の運動会を紹介した項の中にあったメイポールダンスの写真。本文でも触れられてないし、紹介されてる当時のプログラムの中にも見当たらないんだけど、学習院女子では昔からこのメイポールダンスが行われていたとこれもどこかで読んだことがあったので、その様子が載っていて嬉しかった。しかもちゃんと海老茶袴の女学生姿で。
(メイポールダンス→http://youtu.be/ozW6VXFAzok?t=3m22s
この海老茶袴についても、それが女学生の定番の装いとなるまでの成り行きが書かれています。元は華族女学校が創立される以前、明治の初期にあった他の女学校においては男装のような装いが基本で、その後やはりそのような奇異な格好は好ましくないとされて着物になり、その後に開校された華族女学校では女袴を工夫したスカート状の袴を着用することになったとのこと。動きやすくて男装にも見えないその形が定着し、色については当初宮中の女官の緋袴の色を変えたものを着用させていたのがいつしか海老茶色になり、その袴の時は靴を履くことも決められたそう。

その当初の女学生の奇怪な男装様の装いについての、明治8(1875)年お茶の水女子師範学校の開校式に当時の皇后である昭憲皇太后が来校された時のエピソード。皇后はおすべらかしに緋袴と袿、足元はハイヒール(!)、女学生たちは唐人髷に上は女物の着物、下は腰板のついた男袴という恰好で、皇后や女官はその不格好な装いを見て笑いをこらえるのに必死、女学生の方でも十二単にハイヒールおまけに室内で傘を差している上つ方のお姿に噴き出しそうになっていたとか。式後両者はそれぞれの居所に帰るなり自分のことは棚に上げて大笑い。皇后は当時の皇太后(英照皇太后)にまでその話をなさったとかw昭憲さまw

ところで明治のお嬢さま、しかも学習院とくればあの有名な美人コンテスト事件ですよ。本書ではこの事件についてかなり詳細に書かれています。明治41(1908)年に時事新報が募集した「美人写真コンクール」で1位に選ばれたのが、学習院女子部中学三年生の末弘ヒロ子嬢。福岡県小倉市長の四女ヒロ子嬢は、姉の夫が写真店の店主だったため時々写真を撮ってもらっていて、そのうちの写りのいいのを義兄が懸賞に送ってみようと言うがヒロ子嬢は断る。しかし義兄はヒロ子嬢に内緒で応募し、見事一位に輝いてしまったというのが事のあらまし。なのでヒロ子嬢は全然悪くない。にも関わらず当時学習院院長に就任したばかりの乃木大将は、学習院の女子生徒としてあるまじき行為と断罪、ヒロ子嬢を退学処分に…。しかも同級生達からはヒロ子嬢へのやっかみで酷い揶揄や中傷もあったらしい。校内では針のムシロだっただろうなあ…。かわいそすぎる。

しかしさすがに厳格な乃木大将も心が痛んだようで、旧知の間柄だった野津元帥・侯爵野津道貫の嗣子鎮之助との結婚を世話してやった、というのがよく知られたエピソード。何年か前に読んだ本にも確かそう書いてあった。しかし本書では、当時の新聞記事によれば実はヒロ子の父と野津道貫は出身が同じこともあって以前から親交が深く、鎮之助とヒロ子が幼い頃から両家の間で婚約が取り交わされていたと。許嫁ってやつですね。調べてみたところ鎮之助はヒロ子の10歳年上。年齢差すごいけど、あり…だよね当時だし。そしてその頃当主の野津道貫が病に倒れ、余命いくばくもないとなって二人の結婚を急ぐことになり、コンテスト事件からわずか半年後の明治41(1908)年10月6日に二人の結婚式が執り行われたとのこと。もし乃木大将の計らいでヒロ子の輿入れが決まったのなら、当主が重病に倒れている最中に挙行するだろうか、以前からの婚約関係があったからこそ結婚を急ぎ、道貫も病室に二人を呼んでまで結婚を祝ったのではないか、と書かれています。確かに。しかしそうすると乃木大将は無実のヒロ子嬢に実は何のフォローもしていなかったということになり…ちょっと乃木さん、となりますなw

末広ヒロ子

こちらが有名な、美人コンテストで一位となった末弘ヒロ子嬢の写真。大きな目でぱっちり二重。物言いたげな瞳が何とも言えず可愛らしく、なんとなくお人好しそうな、儚げな雰囲気があります。

ちなみに鎮之助とヒロ子嬢の結婚後まもなく当主野津道貫が亡くなったため、ヒロ子は16歳にして侯爵夫人に。市長の娘が侯爵夫人って、すごいよね。この二人が元々許嫁だったとすると、そもそもこんなに身分が違うのにそんな話が持ち上がるものかなと思うのですが(何しろ前述のヒロ子の姉は写真店の店主の妻)、戦後学習院を辞めて女優になった久我美子さんの父も侯爵家(清華家)ながら望んで平民と結婚していたりするので、このヒロ子嬢も市長の娘で学習院の生徒となればそんなにおかしな事でもなかったのかもしれない。つまりまあよくわからない。

ヒロ子嬢の写真は上のものが有名なのですが、他の本から別の写真を一枚。

末広ヒロ子 2

いつの撮影かわからないけど、ちょっとふくよかなので結婚後かも。詳しい方なら髪の結い方で既婚かどうかぐらいわかるのかもしれないけどそのへん明るくありませぬゆえ。ところでこのヒロ子嬢の姉(写真店店主と結婚した姉とは別の姉)の孫が、ジャズピアニストの山下洋輔さんだそうです。上流社会の世間は狭いなあ…。

さて本書では、お嬢さまがたの生態とともに当時の世相なども紹介されています。このコンテストからの流れで、当時の「美人」という言葉が持つイメージについて。まず元々は、一般に美を誇示して賞賛を得る女というのは、玄人の女だったと。つまり芸妓などの。そういった女たちの写真が飛ぶように売れ、今でいうアイドル的存在であったと。美人コンテストの一位という称号が不名誉なものになってしまうのは、つまり「美人」というのは玄人の女、女を売りにする女のイメージがあるものなので、素人の真っ当な家の娘が「美人」ともてはやされるのははしたないことであり、ヒロ子嬢の事件がセンセーショナルだったのはそういう背景もあったのだと。それゆえ以後上流社会の美しい婦人を誉める言葉として「佳人」が使われるようになったとも言える、とのこと。言われてみれば確かに「佳人」には上品なイメージがある。それからだんだんに、美しさを称賛される女性という存在が、玄人の女から素人の(上流社会の)女になっていったと。うまく咀嚼できてない気もするけど、とりあえずこの頃からいわゆる貴婦人や令嬢が、一般庶民の憧れの対象となっていったということみたい。

しかしこういうお嬢さまがたも、玄人の女たちと全く無関係ではなく。当時は正妻の他に妾を持つことが当たり前で、妾はほとんどその「玄人」の女たち。妾が生んだ子はほとんどの場合正妻の子として養育され、子供は正妻を母と信じて育つので、物事がわかるようになってから真実を知って苦しむことも少なくなかったであろうと。一番有名なのでは大正天皇だよね。大好きな母宮(昭憲皇太后)が本当の母でないと知ってとても悲しまれたとか。といってももちろん大正天皇の生母は玄人の女などではなく華族出身の典侍柳原愛子だけども。ちなみに大正天皇の他、明治天皇も昭憲皇太后も、大正天皇の皇后である九条節子さまも、みな正室のお子ではない。生母の出自に子供の身位が左右されないというのは結構意外。どうしても平安時代あたりのイメージが強くて、生母の身分やその一族の権勢に振り回されるもののように思っていたので。

ところで当時妾を囲うことを意味する言葉に「畜妾」というのがあったらしい。どう読んでもその…みたいな。そんで「畜妾届」なるものもあったらしい。妾、戸籍登録するのかよ!その届の記録は残ってないみたいなんだけど、その記録を基にした当時の調査結果は残っているそうで、明治11(1878)年のものでは華族390家中5割以上が妾を登録していたとか。しかもほとんどが妻妾同居。当主が若い世代にはそれほど多くなく、壮年期にぐんと増えると。そして当時のゴシップ誌のようなものに男性の妾事情なる記事があり、そこに有名華族の名前はもちろん妾の出自、住所氏名年齢経緯まで暴露されているという…。本書に引用されているのはごくわずかですが、めっちゃ面白いです。井上馨、伊藤博文、榎本武揚、黒田清輝などなど…。

ここでちょっと、本書で語られているお嬢さまというのがいつ頃の女性達なのかをお粗末ながら表にしてみた。内親王と主要宮妃と、この本に名前だけでも出てくる方のうち生没年がわかる方々だけ。

明治のお嬢さま 黒岩比佐子

貞明皇后の年代その周辺という感じ。この年代のお嬢さまは母親が鹿鳴館で踊った世代とのことなので、年表にも鹿鳴館が存在した期間を色分けしてみた。あと日清、日露などの戦中世代でもあるとのことでそれも。年号とかを覚えるのが苦手なのでこうして目で見てわかるようにしないと頭に入らないの。

ちなみにこちらが貞明皇后となられた九条節子(さだこ)さま。

貞明皇后 九条節子

少年剣士のように凛々しく鋭いお顔立ち。容姿や成績よりもまず健康である、ということを第一条件に選ばれたとか。そして見事に男子ばかり4人もお生みになったというのが凄い。英照皇太后の姪にあたるので明治天皇は義理の従兄弟、夫である大正天皇は義理の従兄弟の息子というのもちょっとおもしろい。上流社会の世間は(ry

あと本書には登場しませんが山階宮菊麿王妃常子(ひさこ)さまのお写真も一枚。

山階宮菊麿王妃常子

山階宮菊麿王には先に範子さまという妃がいて、彼女は貞明皇后の実姉なのだけど三人の子女を残して23歳で薨去。常子妃は菊麿王の後妃となった方で、三人の男子を産んだものの三人目の男子の出産直後に菊麿王が薨去したため、34歳にして未亡人となりながら貞明皇后の甥姪(昭和天皇の従兄妹)にあたる先妃の子女も合わせて6人をお育てになりました。この方のお写真が結構残っているんだけど十二単、洋装(正装)、看護婦姿もどれも美しいのです。なので疑問なのはこんなに美しく、しかも島津公爵家のお姫様だった方がご結婚された時すでに28歳だったということ。本書にもあるけど当時の令嬢の結婚適齢期は16~20歳頃。25歳で「老嬢」とまで言われたとか。なのになんで常子妃は20代後半まで独身だったのだろうかと。先妃の範子さまの方が4歳も年下だったりするので、すごく不思議です。

こういうお嬢さまがたの暮らしにかかる費用というのがどれぐらいのものだったのかも気になるのですが、本書ではそれについてもかなりわかりやすく書かれています。華族の家計費の内訳や財産ランキングなどもあって、目の玉が飛び出そうになりました。まず鹿鳴館時代のドレス一式(ドレス、下着、コルセット)で約200~400万、加えて靴や香水、アクセサリーなども必要なのでさらに高価になるとか。そしてお嬢さまにとっての一大行事である結婚費用の例としてある大名華族の場合が紹介されています。

某侯爵家には二人の令嬢がいて、一人は同族に嫁ぎ、一人は宮家に輿入れした。その宮家との婚礼はすべて洋風で、割に質素だったが、それでも衣装代に七千円、首飾りだけで五千円近くの品物を用意した。
もう一人の同族に嫁いだ令嬢の場合は、古風で純粋な和式で、その当時でもめったに見られなくなった大名の姫様の婚礼だった。
新調した箪笥十七棹には、着物をつめられるだけつめたので、東京随一の呉服店二軒への支払いが、なんと三万五千円にもなった。東京の呉服店にないものは、わざわざ京都の織元まで店員を行かせて、希望通りの品物を取り揃えさせたそうだ。特別仕立てで、七百円もした帯もあったという。

著者は本書で当時の物価を現在の物価に換算するのに五千倍~一万倍しているのでそれに倣って計算すると、まず宮妃の衣装代が約3500~7000万、首飾りに約2500~5000万。それに対して同族に嫁いだ令嬢の呉服店への支払いは約1億7500万~3億5000万、特別仕立ての帯が約300~700万…。頭がぐらぐらしてきました。しかもその同族に嫁いだ令嬢は一年後に亡くなったため、箪笥十七棹のうち三棹しか使われず、残りは女中たちに形見分けとして分配されたとか。す、すごい話だ…。

この婚礼費用の内訳は当時の雑誌に特集されていたもので家名は伏せられていたそうですが、著者が当時の華族の家系図と照らし合わせて調べたところ、この姉妹は侯爵前田慶寧の令嬢二人であったとのこと。宮妃となった令嬢というのは有栖川宮威仁親王妃で、結婚後一年で亡くなってしまったのは公爵近衛篤麿に嫁いだ衍子(さわこ)。そしてこの衍子が亡くなった翌年、妹の貞子が後添いとして近衛に嫁いでいるとのこと。…じゃあ着物、その妹が受け継いだらよかったんじゃ…。というか妹の時にも同じぐらいの支度をしたのだろうか。いろんな意味で心が千々に乱れまする。

ところで本書ではこのエピソード、宮妃になった令嬢は前田慶寧の次女禮子(みちこ)、近衛家に嫁いだのは三女の衍子となっていました。しかし『皇族華族古写真帖愛蔵版』や小田部雄次の『皇族』、角川の『皇室事典』でも有栖川宮威仁親王の妃は前田慶寧四女の慰子(やすこ)となっており、wikiでも同様でさらに衍子は五女、貞子は六女となっていたので、今回作った表ではそちらを採用しています。名前が変わっているのは宮妃になるにあたって改名したのかな?と思ったのですが、wikiで前田慶寧の子女を見てみると禮子という名前があり、この方は長女で子爵榊原家に嫁いでいるということなのでやはり別人かと。宮妃の出自の記録に間違いはなかろうと思うので、これは本書が間違っているのだと思います。姉妹の人数がズレている点も同じく。

ちなみにこの有栖川宮妃慰子さまの産んだ男子は未婚のまま亡くなったので有栖川宮家は断絶、女子は徳川家に嫁いだ實枝子女王がいて、その娘喜久子さまがのちに高松宮妃となっています。つまり上の婚礼費用話は故喜久子妃の母方祖母のお話だったと。そういえば10年程前に有栖川宮詐欺事件なるものがありました。喜久子妃があの事件をどうご覧になっていたのか今更気になる。ところでこの有栖川宮家には有栖川流書道というものがあり、それを實枝子女王から喜久子妃だけが受け継いでいて、喜久子妃は秋篠宮殿下と常陸宮妃殿下にそれを伝授されたとのこと。悠仁親王殿下に受け継がれない限り皇族内では途絶えてしまうことになるけど、秋篠宮殿下は昭和天皇の陵誌(墓誌)に揮毫されているのでその文字だけは未来にも残る、のかな。どこで読んだか忘れたけどその有栖川流書道を喜久子妃が秋篠宮殿下に教えていた時のエピソードで、小さい殿下が蠍(サソリ)とかの難しい字を書きたがって喜久子妃が困惑されていた、というのがありました。さすがダンスィw

ここでもう一人大好きなお嬢さまを。本書には名前が一度だけ登場してました。嬉しいので引用。

『婦人画報』一九〇六年九月号の「新婚の貴夫人」には、和服姿の女性とテニスのラケットを持つ女性の写真が掲載されている。キャプションは「(上図)侯爵四条隆愛氏夫人糸子最近の肖像にして、徳川慶喜公の第十女なり。(下図)陸軍少将長岡外史氏の長女磯子(朝吹英二氏長男常吉氏夫人)の肖像なり」となっている。

雑誌に令嬢たちがグラビアで登場していた、という項の中の一文なんですが、信じられないことにこの写真、載ってないんですよ!そんなキャプションだけ紹介するって、ありー!?ガクリ…。なので『幕末維新明治大正美人帖』、『同愛蔵版』より、朝吹磯子嬢の写真を連投させていただきます。

まず華族女学校時代の磯子嬢。

朝吹磯子 明治30年代

朝吹磯子 明治30年代2

可愛すぎませんか。もう「明治のお嬢さま」と聞いて思い浮かべる姿そのまんまっていうか、漫画に出てきそうな、華やかで美しい明治のお嬢さま。

そしてこちらが明治38(1905)年、磯子嬢16歳のお姿。

朝吹磯子 明治38年

…溜息ついてしまいます。なんて理想的な美しさのお嬢さまよ。

朝吹磯子 明治38年2

こちらは上の写真のドレスにコートを着てお母様と。どちらかというと、お父様似です。お父様超イケメン。写真省くけど。

そしてこちらが明治39(1906)年、17歳。実業家の夫、朝吹常吉氏と。

朝吹磯子 朝吹常吉 明治39年

日本髪も似合う~。

最後は大正9(1920)年頃に外遊記念として友人に送ったという写真。31歳頃。

朝吹磯子 大正9年頃

最近の人と言われても信じてしまいそうなぐらい現代的な美しさ。

ちなみに上述の写真集、通常版愛蔵版ともに表紙は磯子嬢でした。どんだけ推しなのw

本書では当時のお嬢さまの結婚について、華族女学校に保護者が来校して息子の嫁候補を探すということが当たり前に行われており、そうした場合に一番求められる要素は「美しさ」であったとありました。そして結婚が決まるとお嬢さまは退学して花嫁修業などをなさったらしいのですが、やはり美しいお嬢さまからいなくなっていったとのこと。この磯子嬢も16歳でご結婚。やはりな…!と誇らしく唸ってしまうのでした。

磯子嬢の子孫には文学方面に才能がある方が多かったようで、娘の朝吹登水子(翻訳家)などが有名。その他にも大学教授や詩人などなど。磯子嬢本人も自伝のようなものを残しています。まだ手に入れていないのでいずれ絶対…!それはともかく子孫の中で最近その名を知られた方が、第144回芥川賞受賞の朝吹真理子。『きことわ』の人。磯子嬢の曾孫です。…アマゾン見たらかなり辛辣な評価なのね。この真理子さんが生まれた翌年に磯子嬢は亡くなっているので、まあそんなに縁もないし、と思って読んでないんだけど、あらすじ読んだら別荘がどうたらこうたらでちょっとお嬢さまっぽい話っぽい。ので今度時間があったら読んでみたいと思います。

この磯子嬢についての上記本書引用部分でテニスのラケットを持っているとありますが、磯子嬢は結婚後テニスに目覚めて30代から選手権に出たりしています。非常に社交的で活発な方だったらしく、『幕末維新明治大正美人帖』には娘の登水子さんの著書から「母といえば、大柄で体格がよく絹のすそさばきの音をたてて歩く姿、アール・デコの美しい洋装姿が浮かぶ」という文章が紹介されていました。もう”はいからさん”そのままって感じです。本当になんでテニスのラケット持った写真掲載してくれなかったの著者様…。その写真見たことないよーうえーん。自伝に載ってるかしら。

さて、この時代のお嬢さまとしてたぶん一番有名な方といえばやはり、梨本宮守正王妃伊都子(いつこ)さまだと思います。肥前佐賀藩主鍋島侯爵家のお姫様で、駐イタリア公使の娘としてローマで生まれ、それゆえ「伊都子(伊太利の都で生まれた子)」という珍しい名前を持ち、18歳で大名華族から宮家へ輿入れし、フランス留学中の夫とともにヨーロッパ王室を歴訪し、パリでその東洋的な美貌と教養を称賛され、産んだ娘は政略結婚で大韓帝国最後の皇太子妃となり、姪は昭和天皇の弟秩父宮に嫁ぎ、夫の守正王は皇族でただ一人A級戦犯として拘束され(後に釈放)、戦後は皇籍離脱により一般人となり、17歳から94歳までつけ続けた日記を出版して華族令嬢、皇族妃、旧皇族としての生活を今に伝え、質素な生活にも品位を失うことなく、最後の貴婦人と呼ばれた方。

伊都子妃は明治15(1882)年生まれ。鍋島直大侯爵と広橋伯爵令嬢栄子の第一子ですが、次女になります。直大には病死した先妻との間に長男と長女がおり、栄子とは再婚(『幕末維新明治大正美人帖』によると栄子も先夫を亡くしての再婚とのこと)のため。ちなみに伊都子の腹違いの姉朗子は侯爵前田利嗣の妻となっており、利嗣は先に出てきた有栖川宮妃慰子、近衛篤麿先妻衍子、後妻貞子の兄(前田慶寧の長男)なので、伊都子は有栖川宮妃とは結構近い縁戚関係ということに。あともう一つややこしいのが、伊都子の日記によると鍋島直大侯爵の子女は全部で10人。先妻との子供は2人、直大にも妾がいてそこにも子供が4人。ということは直大と栄子との子供は4人のはずなんだけど、wikiには栄子との間に一男四女となってます。でも本書に引用されているのは伊都子本人の日記なので全部で10人なのは間違いなさそう。したがって消去法で確認してみた結果…

先妻:直映(長男)、朗子(長女)
後妻:伊都子(次女)、茂子(三女)、信子(四女)、尚子(五女)
妾:貞次郎(次男・直英)、孝三郎(三男・信孝)、俊子(六女)、哲雄(四男・直縄)


ということかと。女子の生まれ順がもしかしたら逆だったりするかもしれないけど、内訳はたぶんこう。

伊都子は生後7か月で帰国し、以後鍋島家の二万坪の広大な邸宅で育ちます。

鍋島本邸

ほぼ10年かけて建造されたという鍋島本邸。昔からこの写真しか見たことないんだけど、迫力があり過ぎて時々洋館の本を見ていて幻覚のように思い出します。せめてカラーで見たかった。焼失してしまったなんて惜しすぎる。ちなみにこの他に同規模の日本家屋もあり、本邸裏には独身の女中用アパート、庭を下った溜池のほとりには使用人の家族用住宅が二十数軒あったとのこと。使用人は全部で5~60人。箱馬車と幌馬車が二台、厩舎に馬が七頭、人力車も何台かあったとか。想像力もパンクします。ちなみにその溜池のあたり一帯が今は「溜池山王」という駅になっているらしい。

そんな超お姫様の伊都子さま。なんと14歳の時に梨本宮守正王との婚約が内定します。

一八九六(明治二十九)年十月、満十四歳のときに梨本宮守正との婚約が「決まる」。『三代の天皇と私』には、両親から突然呼び出されて、梨本宮守正の妃に内定したことを告げられた、と書かれている。
伊都子は自分の部屋に戻ると、悲しくてたまらず、「そのご縁の宮様がどんなお方かお顔も知らず、どうしたらよかろうかと涙がひとりでに流れるのでした」と回想している。

どんなに貴婦人としての心得を幼い頃から教え込まれようと、一人の少女としての素直な心は誰にもきっと等しいものよね。…ちょっと気持ち悪いこと言っちゃったテヘ(*´ڡ`●)

その頃の伊都子さまのお姿がこちら。

梨本宮守正王妃伊都子 明治28年

これは内定しますわ。

14歳にしてこの気品、美貌(当時の美的感覚において)。そして知性、血筋、家柄、財産。伊都子妃はこの婚約内定から四年間、華族女学校には引き続き通いながら、いわゆるお妃教育も受けていたとか。学校から帰るとフランス語や書道、和歌、歴史を学び、少女らしくはしゃいだりするだけでたしなめられ、正装が洋装だった宮中での暮らしに慣れるためにそれまであまり着たことのなかった洋服を着て過ごすようになったとのこと。

その婚約期間中に準備されたという、妃殿下としての身の回り品が凄い。日記からの引用部分。

第一に妃殿下としての宝冠・首飾り・腕輪・ブローチ・指輪などの宝石一式はきちんとしておかねばならないと、念には念を入れ、宮内省にあれこれお伺いして注文することになりました。パリから絵型を取り寄せて決めるというありさまでした。
鍋島家の国もと佐賀の出身で、パリ通の人に注文してもらって、できあがったらその宝石類を持って帰国するという約束でした。このためにパリへ行き、完成を待って一年後に帰国するのですから、その費用だけでも大変だったと思うのです。宝石は宝冠一つだけでも二万数千円ということでした。その頃の内閣総理大臣の年俸が九千六百円ですから、高額な宝冠です。

「宝冠一つ二万数千円」を、上の方で計算したやり方で現在の物価に換算すると、約1億2500万~2億5000万。宝冠一つで。ちなみに最近作られた眞子内親王殿下・佳子内親王殿下の正装用ティアラはどちらも一式(ネックレス等含)で約3000万。またこの「二万数千円」を伊都子が当時の内閣総理大臣の年俸と比べているので、現在の総理大臣の年俸を2.6倍して計算してみると約1億ちょっと。当時の総理大臣の年俸も高いな。

その他に和服は三越に注文、洋服は宮内庁御用達の仕立て屋へ依頼、箪笥などの調度品一式はすべて特注で紋章入り。これらの花嫁道具を携えて、伊都子妃が守正王の元に上がったのは明治33(1900)年11月28日。同年5月に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚礼があり、11月4~17日には伊都子の兄直映の結婚の宴があったということなので、この年の鍋島家は目の回る忙しさだったに違いない。伊都子さま18歳の冬。その婚礼前後のスケジュールをまとめてみた。

・前日の27日に母栄子とともに宮中で皇后(昭憲皇太后)に対面し、ダイヤモンドと真珠入りの指輪などを受け取る
・馬車ではなく古式に則った婚礼行列で、荷物は洋服戸棚、黒塗紋付箪笥一対、桐紋付金物一対、次の箪笥一対、中箪笥一対、小箪笥、長棹黒塗一対、白木長棹、二つ布団入り、長棹中にかけご入り、衣服その他、道具入り長棹六個、小物衣桁箱入りなどで、行列は二日間にわたる
・夜明け前から準備。おすべらかしを結い、十二単(12kg)の着付け(伊都子の体重は40kg)
・朝8時に近衛騎兵の儀仗隊、儀装馬車が迎えにくる。儀仗兵は正装で、白い羽根のついた赤い軍帽、黒字に赤の上衣、臙脂色に緑の側章のついたズボン、黒の長靴にサーベル、紅白の旗を持ち、騎兵中佐以下20名の編成
・宮中の賢所で神前結婚式。その後初めて守正王と一緒に儀装馬車に乗り、儀仗兵に守られて御殿へ。三々九度の盃の儀式と夫の親族などへの挨拶
・マントドクール(西洋式の大礼服)に着替え、パリで仕立てた宝冠をつけ、守正王とともに皇居に参内して朝見の儀に臨む
・御殿に帰り、ローブデコルテに着替え、守正王とともに芝離宮での披露宴へ向かう。皇族、大臣、各国の大公使、華族、軍人、その他関係者が出席。昼夜二回のパーティーが4日間続く
・次は関西へ。伊勢神宮へ参拝。名古屋を経て京都へ行き、そこでも披露宴
・年末にようやく全ての行程が終了


ほぼ一ヶ月がかり。大変にも程がある。その婚礼の際の両殿下のお姿がこちら。

梨本宮守正王妃伊都子 明治33年

お雛様のように美しい18歳の伊都子妃と、高畑さん(@エスパー魔美)にちょっと似てる守正王26歳。

そしてこちらが洋装に宝冠をつけた伊都子妃。明治39(1906)年撮影ということなので24歳の頃。これが件のパリ製ティアラなのかは不明。恐ろしいことに第二ティアラの可能性もあるよね。

梨本宮守正王妃伊都子 1906年

伊都子妃は"皇族一の美貌"と謳われ、フランス滞在中も先に書いたように美貌と語学力で賞賛を集めていたとか。現代の美的感覚で見て「美貌の皇族妃」と言うとちょっと違和感がありますが、涼やかな面立ちと悠然とした雰囲気に、当時の世相などにあまり詳しくないなりにも圧倒されます。

婚約の内定を知った時には一人泣いていた伊都子妃ですが、結婚後の両殿下はとても仲睦まじく、翌年には長女が誕生。この長女が後に朝鮮王朝最後の皇太子李垠の妃となる方子(まさこ)女王で、次女は祖母方の広橋家に嫁いだ規子(のりこ)女王。規子女王は当初、上の方で出てきた山階宮菊麿王と先妃範子の第一子である武彦王が、関東大震災で佐紀子妃(賀陽宮邦憲王第二王女)と胎児を失ったため後妃となるはずだったのですが、武彦王がその事故をきっかけに精神に異常をきたしたため破談となり、規子女王は遠縁にあたる祖母栄子の一族に嫁いだとのこと。

梨本宮守正王妃伊都子 李方子 明治40年

明治40(1907)年の伊都子妃25歳。方子女王の乙姫さまみたいな髪型が可愛い。

梨本宮守正王妃伊都子 明治40年代

伊都子妃は身長が150cmちょっとぐらいしかなかったそうですが、そんなふうには全然見えない。むしろすらっとしていて大柄な方だったのかなと感じるぐらい。華やかな人は大きく見えると言うしなあ。

当時の貴婦人には子供を産むことの他にもう一つ大事なお役目があり、それが日赤の篤志看護婦人会でのボランティア活動。伊都子妃の母栄子がこの篤志看護婦人会の初代会長であったため、伊都子妃も結婚前からこの活動に参加していたとのこと。講義を聴いたり、術後の包帯の交換を見学したり、患部に湿布を施したり。結婚後は皇族妃として初めて篤志看護婦人会に出席し、実地演習とともにさまざまな医療法の講義を受けたと。塗擦法(薬の塗布とか?)、按摩法(マッサージ?)、吸入法、点眼法(目薬さしてあげるのか)、注入法(注射?)、灌腸法(えっ)、救急担架作り、包帯交換など、とありました。
灌腸法…お姫様が…( ゚Д゚) 救急担架作りも何気に気になる。

その他に傷病兵への慰問や戦地に送る慰問袋を作ったりなど、精力的に働かれていたらしい。慰問袋にはボタンや針、糸、絵葉書や半紙、鉛筆、梅干し、楊枝、歯磨き粉など生活に必要なものがランダムに入っており、戦地の兵士たちは大盛り上がりで各々の中身を自慢したり、交換したりなどしていたそう。時代は違いますが私が持っている1940年代頃のブロマイドの中にも、戦地へ向けてのメッセージが印刷されているものがたまにあってドキッとすることがあります。高峰秀子の血染めのブロマイドのエピソードなどもあるし、戦地で生命を脅かされ行動の自由を制限されるという非日常の中にいる兵士たちにとって、どんなにか母国からのそういった贈り物が嬉しく、心の支えになったことだろう。

当時同じように看護活動に参加していた大山捨松(大山巌夫人)の回想文も紹介されており、それによると貴婦人たちは普段使用人の手を借りねば着物も着られず、ハンカチよりも重いものを持ったこともなく、一人で外出したこともないような方々だけれども、その活動の際には小さなお弁当箱と制服の入った風呂敷を抱え、毎日病院に通って来ていたとのこと。本書の著者はそういった貴婦人たちの活動の根底に、貴婦人たちの夫に軍人として働く者も多く、また大名華族出身の貴婦人たちも多いことから、元武家の女性としての心得が貴婦人たちの中に生きており、国や伴侶と運命をともにする覚悟があったからこそ、激しい時代の流れの中でも気丈に生きて行かれたのではと語っています。そしてまたそういった貴婦人たちの写真が雑誌のグラビアを飾り一般人の目に触れることによって、美しさや気高さとともに日本女性のあるべき姿として示すことになったのだろうとも。

梨本宮守正王妃伊都子

こちらは大正天皇の即位礼(大正4年/1915年)用のお召し物姿の伊都子妃、33歳頃のお姿。
まろやかなお顔。やっぱり今見ても美しい。

その後の伊都子妃は、昭和の戦争で梨本宮本邸が焼失、終戦の際には守正王がA級戦犯として捕えられるなど激動の時を経て、1947年の皇籍離脱後は一般人として暮らす中で生活事情に苦しむことも多かったそう。それでも守正王とはずっと仲睦まじく寄り添い、昭和26(1951)年1月、金婚式の一か月後に守正王が急逝した後は未亡人恩給で静かに暮らし、身の回りのことは何でも自分でこなされていたとのこと。ローマ生まれの鍋島侯爵家のお姫様で皇族妃という前半生からするとその落差に驚きますが、伊都子さまは規則正しい生活の中で観劇や常磐会の集まりなどを楽しみに、昭和51(1976)年に94歳で亡くなるまで耄碌とは無縁の毅然とした生活を送られていたとのこと。

ここでやや脱線というか、明治のお嬢さま話題スレスレってことで好きな写真を連投。

朝香宮鳩彦王 北白川宮成久王 東久邇宮稔彦王 明治39年 1906

こちら真ん中が朝香宮鳩彦(やすひこ)王、その右が北白川宮成久(なるひさ)王。明治の皇族男子イケメンツートップです(独断)。スレスレというのは、この二人がどちらも明治天皇の内親王と結婚しているから。つまり義兄弟。高貴な生まれの美形な学友同士が義兄弟とか、ちょっとよくないですか。

こちらが北白川宮成久王。皇族男子一の美形と言っていいと思う!

北白川宮成久王

成久王は明治20(1887)年生まれ。父の能久王の薨去により明治28(1895)年9歳で北白川宮家の当主に。漫画みたいな色白の美少年です。坊主頭なのがちょっともったいない。

北白川宮成久王 陸軍砲兵少佐時代

陸軍砲兵少佐時代。ちょっと雰囲気が変わりました。

成久王は明治42(1909)年に明治天皇の第七皇女周宮房子内親王と結婚。

北白川宮成久王 大正10年

大正10(1921)年の北白川宮ご一家。成久王34歳の頃。少年時代と比べるとかなり険しいお顔つきに。でもダンディ。この後フランスに留学されて、2年後の大正12(1923)年、成久王は自身の乱暴な運転のために命を落としてしまいます。この時、同乗していた房子内親王と学友の朝香宮鳩彦王も重傷を負いました。少年時代の面影に反して、友人の忠告も聞かず無茶なことをなさるお方だったようです。北白川宮家の悲劇の一つ。

こちらがもう一人のイケメン、朝香宮鳩彦王。成久王と同じ明治20(1887)年生まれ。

朝香宮鳩彦王

精悍な美少年。ちょっと桐谷健太に似てる。成久王は堺雅人って感じかな。

鳩彦王は明治43(1910)年に明治天皇の第八皇女富美宮允子内親王と結婚。

朝香宮鳩彦王 2

昭和3(1928)年、昭和天皇即位大礼式。鳩彦王41歳の頃。鳩彦王はあんまり顔変わらない。

朝香宮鳩彦王 3

この写真が一番好き。いつ頃のものかわからないんだけど、きりっとした目元が穏やかに緩んでいるのが素敵です。右下に「鳩」って書いてあるのがなんか可愛い。名前ってわかってるんだけどw

ここまで本書に登場するお嬢さまがたのうち何人かに絞って(登場していない方も勝手に)書いてきたのですが、本書では著名な令嬢のことだけでなく、一般的な令嬢の生活や美へのこだわり、流行の髪型の変遷などが当時の新聞記事などを元に次々紹介されています。

中でも興味深かったのは、お嬢さまたちの髪の洗い方。シャンプーとドライヤーのない生活なんて想像もできないですが、100年前には当たり前だったわけで、当時のお嬢さまたちがどうしていたかというと、なんと布海苔(ふのり)と饂飩粉(うどんこ)を使うのが一般的だったとのこと。布海苔を煮て溶いて、そこに饂飩粉を混ぜてドロドロにしたものを髪に塗って、よく揉んでからぬるま湯で洗い流していたそう。なんとなくわかるようなわからないような。そしてもっと髪にいいのは、卵を3~4個割って白身も黄身も一緒に混ぜ、それを髪に塗って同じように揉みこんで洗い流す、というものだそう。髪ベッタベタになりそうですが、当時は艶のある髪が美しいとされていたそうだからそれがいいのか。でも卵を洗髪に使うなんて贅沢ということでお嬢さまでもなかなか挑戦できない洗髪法だったらしい。そして髪を洗ったら乾かすのもまた大変で、とにかく髪を傷めないことが一番とされており、濡れた髪を日光に当ててはいけない、櫛を通してはいけない、火鉢の火で温めるのもいけない、ということで水気を拭き取った後はずっと自然乾燥が推奨されていたとのこと。そして乾いた後で椿油を塗って艶を出す、と。気が遠くなるー。冬も暖炉で乾かすの禁止だったのかしら。そんなんしてたら風邪ひくお。

また化粧法についても、令嬢たちは白粉の塗り方や髪の生え際の調整などに苦心していて、なまじお金と時間があるものだからかなり突飛な試行錯誤もしていたようです。いろんな眉の描き方を試していたとある令嬢がある日、友人の助言で「コロップ」を焼いて塗ってみるといいと言われ、そのとおりにしてみます。色は合ってちょうど良さそうに見えたのですが、風が吹いたらすっかり飛んでしまい、黒い粉が顔全体に散らばってホクロだらけのようになり、顔を拭いたら真っ黒になって大失敗。この「コロップ」というのはコルクのことなのですが、ついこの間(二日前ぐらい)テレビで福岡の節約主婦が「私はこれで眉を描いてます!」と自信満々に紹介したのがこのコルクを焼いて眉を描くという節約術で、私は一人爆笑しつつ家族にこの本のことを話したのですが「へー?」としか返されず不満です。にしてもあの主婦の方スゲーと思います。100年前に既出とかそれ。

というわけでコルクの眉はやってみませんが、六分のお箸は毎日一食分は実践するかもと宣言することにしておしまい。


☆追記(2015/7/20)
メイポールダンスのいい動画見つけた!
【2014/4/6】実践女子学園中学校高等学校生徒による奉納【メイポールダンス】
https://www.youtube.com/watch?v=ULExBIixu50
明治神宮での昭憲皇太后百年祭でのものだそう。上に上げた福岡女学院のものとはまただいぶ雰囲気が違う。これ生徒さんはダンス部とかじゃないのかな。ステップ軽いしすごい揃ってる。
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